私と言う生き物の培養液(7)
《私と言う生き物の培養液》(7)
憧れの家庭
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
****************************************

《私と言う生き物の培養液》(7)
憧れの家庭
私達(母と私)は、なかなか受け入れ難い時代錯誤的な環境に放り込まれた、
同胞のような関係の女子二人である。
母はごく普通のサラリーマン家庭に生まれた。
高校を卒業すると間も無く(19歳くらいか)、親の決めた相手と結婚した。
写真を見ただけの相手だったらしいが、断るほどの印象の悪さも無かったのだろう。
それなりに覚悟を決め、受け入れて嫁いだ。
いきなり、13人という大家族の中に放り込まれ,家政婦的役割を担わされ、
農家の嫁と職人の妻という生活が始まる。
そして、私を産み、何が原因かは分からないがある病気で2年ほど入院した。
退院後も自分の自由な時間など勿論無い、13人という大家族の慌しい生活が繰り返される。
毎日が母にとっては生き地獄だったろう。
しかし私に助けを求められても…、私は子どもだ。
子どもなりにやりたい事も、やらなければいけないことも沢山ある。
可哀相な母の心情が見えていながら、私は知らない振りをした。
そんな大人の事情にごく普通の子どもの自由を奪われたくなかった。
それでなくても、男子に負けないくらい腕力が付くという、
日に2回の2升の米研ぎと13人分の後片付けは、旅館じゃあるまいに、
小学生の子ども(自分)には理不尽だという不満があった。
子供が机に向かい教科書を開き、学校の宿題や予習復習をしていれば、
普通の親は喜ぶものじゃないのか?
そして、分からない問題があれば親に聞き、親も顔を突き合わせて丁寧に教えてくれる…、
私の理想だった。
よくテレビドラマなどで、こんな都会の家族風景がある。
仕事から帰った父親が、テレビを見たり遊んでる子供に向かって、
「テレビばかり見てないで、(遊んでないで)勉強しなさい。」と言う、
あの風景…、私の理想だった。
最近は、「ゲームをしていると、『勉強しろ!』と親が煩いから殺した」なんて話が、
当たり前のように聞えて来るけれど、短絡的で情け無い話だと思う。
換われるものなら代わって、私がその環境でやり直したいものだと未だに思う。
ここで言い加えるなら、うちには、私たち子供にテレビのチャンネル権はなかった。
だから「テレビばかり見てないで…云々」と言う状況がそもそも無い。
そして、就寝時間は8時と決められていた。
お金を稼いで家族を養う父親は、絶対的存在であり、当然、口答えや反発など許される筈がない。
テーブルの上の母の作った食事を囲んで、学校の話や友達の話、授業の事、先生の事…、
そんな他愛もない会話をしながらの夕食時の一家団欒…、
私の理想だった。
私の父は日常口癖のように言った。
「勉強なんかしなくていい。さっさと学校の道具(教科書等)を片付けて、ご飯の手伝いをしろ。」
そして二言目には
「そんなに勉強しなくていい。どうせ嫁に行くんだから(嫌いな言葉だ!)。」
こうも言った。
「勉強しすぎて大学へ行きたいなんて言われちゃ困る。教師や医者や政治家にになるなら別だけど」
(父にとっては教師、医者、政治家、他公務員は立派な職業で、それ以外は問題外であった。
女がキャリアを持って、家庭より仕事をする事など以ての外である。)
あまりに思考が飛躍しすぎていて、発想が狭すぎて、情けなくて、
これが自分の父だという事が、嫌で嫌でたまらなかった。
母も母らしくは無かったが、それ以上に私は父親が大嫌いだった。
この父親の血が自分に流れていると思うと体の中から掻き出したくなるほど悪寒がした。
自分が存在する事が許せなくなりそうだった。
私は、この父親の元にいたら、或いはこの父親がいる限り、『私には人生の選択肢はない』という、
一歩間違えば殺意に変わりそうなほどの嫌悪を抱き始めていた。
幸い私の場合それの矛先は、父や自分への殺意では無く、
その後実行するべく、この環境からの脱出計画へと向いていった。
今思えば、こういう発想は、開拓移民の祖父の意気地の影響かもしれない。
今も何かと思い悩み混乱に陥り易い自分だが、根底にある『現状打破』の意識に維持されている。
あ、そうか。
物心付いた時から座右の銘を聞かれると返答に困ったが、私の座右の銘はこれか。
今までなぜか、『臥薪嘗胆』が頭から離れなかったが、
自分ではそんなものいらないと思っていたので、座右の銘にする事ができなかった。
この年齢になって、こんなものを書くようになって、初めて見つけた。
私を支えていたのはこれだったんだ。『現状打破』
辛うじて私の正気を維持していたのは、やはり祖父の存在だったのか。
その後も、あれこれ父の迷言に私は縛り付けられながら、青春時代をすごすことになる。
(続く)
追記:
ブログを書いて、初めて気付くことが多々ある。
しかし今日気付いた、座右の銘にするべく『現状打破』と言う言葉は、
現実世界の表の顔の私には凡そ似つかわしくない言葉である。
他人の目には、打破しなければいけないような環境に置かれているようには見えていないから。(笑)
それでも、こうして気付いてたことに感謝。
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憧れの家庭
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このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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《私と言う生き物の培養液》(7)
憧れの家庭
私達(母と私)は、なかなか受け入れ難い時代錯誤的な環境に放り込まれた、
同胞のような関係の女子二人である。
母はごく普通のサラリーマン家庭に生まれた。
高校を卒業すると間も無く(19歳くらいか)、親の決めた相手と結婚した。
写真を見ただけの相手だったらしいが、断るほどの印象の悪さも無かったのだろう。
それなりに覚悟を決め、受け入れて嫁いだ。
いきなり、13人という大家族の中に放り込まれ,家政婦的役割を担わされ、
農家の嫁と職人の妻という生活が始まる。
そして、私を産み、何が原因かは分からないがある病気で2年ほど入院した。
退院後も自分の自由な時間など勿論無い、13人という大家族の慌しい生活が繰り返される。
毎日が母にとっては生き地獄だったろう。
しかし私に助けを求められても…、私は子どもだ。
子どもなりにやりたい事も、やらなければいけないことも沢山ある。
可哀相な母の心情が見えていながら、私は知らない振りをした。
そんな大人の事情にごく普通の子どもの自由を奪われたくなかった。
それでなくても、男子に負けないくらい腕力が付くという、
日に2回の2升の米研ぎと13人分の後片付けは、旅館じゃあるまいに、
小学生の子ども(自分)には理不尽だという不満があった。
子供が机に向かい教科書を開き、学校の宿題や予習復習をしていれば、
普通の親は喜ぶものじゃないのか?
そして、分からない問題があれば親に聞き、親も顔を突き合わせて丁寧に教えてくれる…、
私の理想だった。
よくテレビドラマなどで、こんな都会の家族風景がある。
仕事から帰った父親が、テレビを見たり遊んでる子供に向かって、
「テレビばかり見てないで、(遊んでないで)勉強しなさい。」と言う、
あの風景…、私の理想だった。
最近は、「ゲームをしていると、『勉強しろ!』と親が煩いから殺した」なんて話が、
当たり前のように聞えて来るけれど、短絡的で情け無い話だと思う。
換われるものなら代わって、私がその環境でやり直したいものだと未だに思う。
ここで言い加えるなら、うちには、私たち子供にテレビのチャンネル権はなかった。
だから「テレビばかり見てないで…云々」と言う状況がそもそも無い。
そして、就寝時間は8時と決められていた。
お金を稼いで家族を養う父親は、絶対的存在であり、当然、口答えや反発など許される筈がない。
テーブルの上の母の作った食事を囲んで、学校の話や友達の話、授業の事、先生の事…、
そんな他愛もない会話をしながらの夕食時の一家団欒…、
私の理想だった。
私の父は日常口癖のように言った。
「勉強なんかしなくていい。さっさと学校の道具(教科書等)を片付けて、ご飯の手伝いをしろ。」
そして二言目には
「そんなに勉強しなくていい。どうせ嫁に行くんだから(嫌いな言葉だ!)。」
こうも言った。
「勉強しすぎて大学へ行きたいなんて言われちゃ困る。教師や医者や政治家にになるなら別だけど」
(父にとっては教師、医者、政治家、他公務員は立派な職業で、それ以外は問題外であった。
女がキャリアを持って、家庭より仕事をする事など以ての外である。)
あまりに思考が飛躍しすぎていて、発想が狭すぎて、情けなくて、
これが自分の父だという事が、嫌で嫌でたまらなかった。
母も母らしくは無かったが、それ以上に私は父親が大嫌いだった。
この父親の血が自分に流れていると思うと体の中から掻き出したくなるほど悪寒がした。
自分が存在する事が許せなくなりそうだった。
私は、この父親の元にいたら、或いはこの父親がいる限り、『私には人生の選択肢はない』という、
一歩間違えば殺意に変わりそうなほどの嫌悪を抱き始めていた。
幸い私の場合それの矛先は、父や自分への殺意では無く、
その後実行するべく、この環境からの脱出計画へと向いていった。
今思えば、こういう発想は、開拓移民の祖父の意気地の影響かもしれない。
今も何かと思い悩み混乱に陥り易い自分だが、根底にある『現状打破』の意識に維持されている。
あ、そうか。
物心付いた時から座右の銘を聞かれると返答に困ったが、私の座右の銘はこれか。
今までなぜか、『臥薪嘗胆』が頭から離れなかったが、
自分ではそんなものいらないと思っていたので、座右の銘にする事ができなかった。
この年齢になって、こんなものを書くようになって、初めて見つけた。
私を支えていたのはこれだったんだ。『現状打破』
辛うじて私の正気を維持していたのは、やはり祖父の存在だったのか。
その後も、あれこれ父の迷言に私は縛り付けられながら、青春時代をすごすことになる。
(続く)
追記:
ブログを書いて、初めて気付くことが多々ある。
しかし今日気付いた、座右の銘にするべく『現状打破』と言う言葉は、
現実世界の表の顔の私には凡そ似つかわしくない言葉である。
他人の目には、打破しなければいけないような環境に置かれているようには見えていないから。(笑)
それでも、こうして気付いてたことに感謝。
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私と言う生き物の培養液(6)
《私と言う生き物の培養液》(6)
私と母の関係
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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《私と言う生き物の培養液》(6)
私と母の関係
過去に費やしたものや犠牲にしたものが空しくて仕方ない。
私は学校の勉強や趣味に没頭するを口実に、その仕事を遅らせたり忘れたフリをする事があった。
米を研ぐ大変さがイヤだったこともあったけれど、
子供らしく机に向かう権利(学習する事)を、否定され奪われることへの反発、
理不尽な事を強いられ、納得のいかない思想で押え付けられる事への些細な抵抗だった。
仕事をさぼるという私の抵抗は、田畑から疲れて戻った空腹な大人や母を度々失望させた。
そういう時、母は確実に無口になり、表情は暗かった。
当然だ。田畑仕事で疲れた体を引き摺り、
(ご飯と味噌汁は出来ているはずだと当てにし頼りにしていただろうに)
少しは楽かと言う思いで家に帰り着いたのに、それがなされていなくて、
13人分の食事の支度を全て一からやらなければならないのだから。
おまけに末っ子で育ち、20歳前で嫁に来た母は、あまり料理が得意ではない。
更に可哀相だが、義姉(父の姉)がやたら器用で料理も上手い。
義姉自体は、嫌みなどを言う人ではなかったが、母にとっては、そんな義姉の存在や
姑の遠まわしな嫌みや、偏屈で我侭で亭主関白な父(職人とはそんなものだけど)、
更に頑固で偏屈な祖父、全く能天気な義理の兄達二人、そして赤の他人である弟子達の、
無言のプレッシャーの生き地獄に晒されていたと思う。
母にとって、私は彼女の子どもと言うより、他人だらけの中にあって、
唯一自分が泣き言をさらけ出せる血の繋がった身内だったかもしれない。
それと同時にまだ母親になりきっていない若い母にとって、
身内や友人から離れてくらす不安な心を支えてくれる、
そんな友人的存在だったかもしれない。
事実、当てにされながらも私はしゃあしゃあと裏切るのに、そんな私でも母は一向に構わず、
まるで親友に相談するかのように、困りごとや姑に対する愚痴を零すことが日常的にあった。
年寄りが寝静まった後の夜半や、家周りの手伝いを二人っきりでしている時などに、
まるでOLさんが給湯室で先輩や会社の愚痴を零すみたいに…。
(言葉の理解力は多少優れていたとは言え、相手(私)は小学生低学年だ。)
親子の然るべき理想的な関係とは凡そかけ離れている。
その妙な、依存関係になった原因は他にもある。
おそらく母が私を育てていないからに他ならないと思う。
縦列的な親子関係ではなく、並列的な姉妹或いは友達のようなそんな関係の母と私。
見た目だけなら『嬉しい〜!』ともなろうが、実際の関係までそれって…。
『学校へ行こう!』と言う番組で随分前に、〔友達親子〕なる企画があって、
若い(と言うより若作りした)お母さんと娘がペアとなって、
どのペアがどれだけ友達同士のように見えるかを競っていた。
かつて、私が15歳くらいになった頃、母とショッピングに出かけるとよく姉妹に間違われたっけ。
私の母がどう感じてたかは分からない。
一生懸命母親になろうとしていたとすれば少なからずショックだったろう。
世間の若いお母さんは嬉しいだろうが。
私はというと、間違われるたび何だか、『彼女に母を求めることへの諦め』が強くなっていって、
私の中での母の存在は、『頼りない歳の離れた姉』に変わっていたように思う。
見た目友達親子的母娘の場合、何だかんだ言ってもいざとなれば、
娘は「ねぇ、ねぇ、おか〜さん、お願い!」なんて甘えるのは平気で当たり前のことだろう。
でも、中身まで友達親子の場合、娘は母の支えになろうと努めることはできても、
自分が甘える事はできないのである。
私達(母と私)は、なかなか受け入れ難い時代錯誤的な環境に放り込まれた、
同胞のような関係の女子二人である。
(続く)
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私と母の関係
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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《私と言う生き物の培養液》(6)
私と母の関係
過去に費やしたものや犠牲にしたものが空しくて仕方ない。
私は学校の勉強や趣味に没頭するを口実に、その仕事を遅らせたり忘れたフリをする事があった。
米を研ぐ大変さがイヤだったこともあったけれど、
子供らしく机に向かう権利(学習する事)を、否定され奪われることへの反発、
理不尽な事を強いられ、納得のいかない思想で押え付けられる事への些細な抵抗だった。
仕事をさぼるという私の抵抗は、田畑から疲れて戻った空腹な大人や母を度々失望させた。
そういう時、母は確実に無口になり、表情は暗かった。
当然だ。田畑仕事で疲れた体を引き摺り、
(ご飯と味噌汁は出来ているはずだと当てにし頼りにしていただろうに)
少しは楽かと言う思いで家に帰り着いたのに、それがなされていなくて、
13人分の食事の支度を全て一からやらなければならないのだから。
おまけに末っ子で育ち、20歳前で嫁に来た母は、あまり料理が得意ではない。
更に可哀相だが、義姉(父の姉)がやたら器用で料理も上手い。
義姉自体は、嫌みなどを言う人ではなかったが、母にとっては、そんな義姉の存在や
姑の遠まわしな嫌みや、偏屈で我侭で亭主関白な父(職人とはそんなものだけど)、
更に頑固で偏屈な祖父、全く能天気な義理の兄達二人、そして赤の他人である弟子達の、
無言のプレッシャーの生き地獄に晒されていたと思う。
母にとって、私は彼女の子どもと言うより、他人だらけの中にあって、
唯一自分が泣き言をさらけ出せる血の繋がった身内だったかもしれない。
それと同時にまだ母親になりきっていない若い母にとって、
身内や友人から離れてくらす不安な心を支えてくれる、
そんな友人的存在だったかもしれない。
事実、当てにされながらも私はしゃあしゃあと裏切るのに、そんな私でも母は一向に構わず、
まるで親友に相談するかのように、困りごとや姑に対する愚痴を零すことが日常的にあった。
年寄りが寝静まった後の夜半や、家周りの手伝いを二人っきりでしている時などに、
まるでOLさんが給湯室で先輩や会社の愚痴を零すみたいに…。
(言葉の理解力は多少優れていたとは言え、相手(私)は小学生低学年だ。)
親子の然るべき理想的な関係とは凡そかけ離れている。
その妙な、依存関係になった原因は他にもある。
おそらく母が私を育てていないからに他ならないと思う。
縦列的な親子関係ではなく、並列的な姉妹或いは友達のようなそんな関係の母と私。
見た目だけなら『嬉しい〜!』ともなろうが、実際の関係までそれって…。
『学校へ行こう!』と言う番組で随分前に、〔友達親子〕なる企画があって、
若い(と言うより若作りした)お母さんと娘がペアとなって、
どのペアがどれだけ友達同士のように見えるかを競っていた。
かつて、私が15歳くらいになった頃、母とショッピングに出かけるとよく姉妹に間違われたっけ。
私の母がどう感じてたかは分からない。
一生懸命母親になろうとしていたとすれば少なからずショックだったろう。
世間の若いお母さんは嬉しいだろうが。
私はというと、間違われるたび何だか、『彼女に母を求めることへの諦め』が強くなっていって、
私の中での母の存在は、『頼りない歳の離れた姉』に変わっていたように思う。
見た目友達親子的母娘の場合、何だかんだ言ってもいざとなれば、
娘は「ねぇ、ねぇ、おか〜さん、お願い!」なんて甘えるのは平気で当たり前のことだろう。
でも、中身まで友達親子の場合、娘は母の支えになろうと努めることはできても、
自分が甘える事はできないのである。
私達(母と私)は、なかなか受け入れ難い時代錯誤的な環境に放り込まれた、
同胞のような関係の女子二人である。
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道〜迎えに行くからね

道〜迎えに行くからね
ふと立ち止まったその先
凝らした目に翳ろう無形の未来…
それ程多くは残っていない
重ねるように描かれた線画に
無数の色を次々と搾り出す
どんな種を植えた?
ひとつ残らず花は咲いたか?
あの時捨てた残骸から
最後の為の濁色を掬うように
今はタイムロスだと言われようと
戻ってあげるからね
私は少し優しくなったから
無い物強請りばかりの欲求で
声無き叫びに喉がカラカラで
涙を持たないあの頃の私を
忘れてないよ
ちゃんと迎えに行くから
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心の病

たまたま仕事場で皇室の雅子様の事が話題に上った。
結婚する前は力強い笑顔が魅力的で、キャリアウーマンとしての姿はとても輝いていた雅子様。
しかしいつしかご病気と言われてからは、時折りテレビ映像で垣間見るその姿のみならず、
笑顔さえも力無く、あの太陽のような輝きは失せている。
皇室に嫁いだが為…とは言い過ぎではないだろう、今は本当に気の毒だ。
こんな私でも真剣に心配して、一日も早く元気になられるよう心の中では祈ってた。
とそこで、数字の計算にはやたら強いが、精神的な事や情緒的な感覚には超鈍感な我が女上司、
いつものようにピントのずれた一言を発する。
「子供が生めないのは雅子さんだけが悪いんじゃなくて皇太子が悪い。」
「子供は女一人じゃ作れないんだから、皇太子がしっかりしないと。」
「紀子様は3人産んでるんだから、雅子様もまだ大丈夫よ。」
この3つの言葉は、雅子様が心の病を患っているという事を全く軽視した、
かなり無責任で非情な発言だと思う。
同じ女性としての立場で、よくこんな事が言えるなあと内心呆れた。
女性の身体はメンタルの状態にとても影響され易く、
雅子様の今の状態は、子供を宿すことさえもが困難なのかも知れないのに。
この女上司の発言は、子供を宿す事ができると言うことが前提である。
そして一番呆れた、極めつけの無神経発言がこれ。
「心の病気と言ってるけれど、気持ちをぱっと切り替えればいいんじゃない?気の持ちようでしょ。」
思わず私は言ってしまいました。
「そんな簡単なことじゃないでしょ。」
分からない人にそれ以上の説明をしても無駄と思い、その後は何も言いませんでしたが。
実はこんなことを言ってる本人も、ストーカー被害まがいな悩みから、
円形脱毛症になった経験を持っている。
確かに彼女は美人だが、傍から見れば被害妄想で、少し自意識過剰じゃないの?
気にし過ぎじゃないの?と思えるような出来事ではあった。
(美しいから、皆が、主に男性陣が同情する。)
私もその出来事を知っているが、本人の被害の正当化はやや大袈裟な被害妄想的に思えた。
それこそ、気持ちをぱっと切り替えればいいんじゃないの?気の持ちようではないのか?と…。
美人の彼女の過去の体験に絡む何らかのトラウマがあるのだろうと、私は察するが、
周りが思う以上に本人の精神的ストレスは大きかったということだろう。
自らがそういうことを体験しているくせに、自分のことは棚に上げて、
他人のことは、たかがそんなことという感じである。
度々、彼女はこういう無神経な事を平気でいう。
こういう人はこういう思考回路と神経しか持ち合わせていないから、寧ろ幸せなのかもしれない。
もともとデリケートでセンシティブな感性は持ち合わせていないのだから。
彼女のような人間のことを気に悩むのは馬鹿らしい半面、
そういう人間に限ってこちらに平気で悪影響を振りまくから性質が悪いのだけれど。
彼女には、どちらかと言うと神経質な娘がいる。
娘はもう社会人だが、時々過呼吸症候群で発作を起こすのだという。
「突然過呼吸になって発作が起きる。精神的なことが原因っていうけど、わけがわからない」
以前そんなことを言っていたことがある。
娘が悩むたび、彼女は「気持ちを切り替えることよ。気の持ちようよ。」と励ましてきたのだろうか?
原因は鈍感な母(彼女)にもある気がしてならない。
仕事で彼女と顔を突き合わせて、かなり長い。
度々こういう単細胞な無神経で鈍感な思考回路を垣間見る。
慣れたといえば慣れたのだけれど、
それでも「どんだけこの女、鈍感なんだ。これで美人じゃなかったら最悪だ…」と、
腹が立ってくることがある。
そう思いながら、何年間も気の合うフリをしてもめ事ひとつ起こさずにいる私も忍耐強いと思う。(笑)
別な仕事のパートナーとして誘われたが、これ以上彼女と顔を突き合わせて仕事をするなんて、
内心ぞっとする。
自分を卑下しながら上手に断る、私である。
彼女から見ると、何の悩みもない能天気で幸せそうに見える私である。
私は、取り敢えず見た目も中身も、毒は撒き散らしていないらしいので、ほっとしている。
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私と言う生き物の培養液(5)
《私と言う生き物の培養液》(5)
私の役割
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このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
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《私と言う生き物の培養液》(5)
私の役割
そして、こんな大家族の中で生活するのだから、この頃には私にも母から分担されて、
いくつかの手伝い仕事があった。
主な仕事は米研ぎである。米は毎朝毎夕2升炊く。
この一日2回の米研ぎが私の仕事になった。
最初1回だったものが2回ともに増え、
小3くらいの時には既に食器洗いも併せて、私の仕事だったと思う。
夕食の支度に関してはご飯だけでなく味噌汁を作っておくのも私の役目だった。
朝の米研ぎは、夜の食事の後片付けの後に研いでおくが、夕飯の分は学校から帰宅してからやった。
だけど学校から帰宅して宿題をやったり自分のことをしてると、あっという間に時間が過ぎて、
夕飯の支度をすっかり忘れていることもあった。
少し話がもどる。
私は小児喘息を患っていた。(病気の記憶は5歳位からしかないが、アトピーもあった。)
私は、ちょっとした運動や気象などの外的変化で発作を起こしていたので、
当然田畑仕事の手伝いに引っ張り出される事はなかった。
が、家にいたからといって、静養してたわけじゃない。
大体は家で炊事洗濯などを任されることが多かった。
寧ろ田畑仕事と変わりなく体力仕事だった気がする。
大人数…洗濯だって、畑仕事の汚れ物もあるので、4人家族とかの一般家庭の2倍以上はある。
量は半端じゃない。
時に前日の干しっ放しを取り入れてたたむ、それも私の仕事だった。
話がそれたが、そもそも今の時代に2升の米を研ぐということを想像できる人がいるだろうか?
宿屋か食堂か惣菜コーナーに従事している大人にしかわからないんじゃないだろうか?
その人たちですら、今の世の中に市販されているような、
チャチャッと2〜3回すすげば済む米しか扱ったことないでしょう。
私が与えられた米研ぎという仕事はそんな楽なものじゃない。
自家精米6分搗きで、研ぎ方も難しい。
言い忘れたが、この頃、朝はガス炊飯器を使っていたが、夜は薪を燃やして鉄釜で炊いていた。
米農家の、それも我が家だけのこだわりであって、
よその家の食卓はとっくにガス&電気による文明の利器をフル活用していたというのに。
そしてその面倒極まりない迷惑なこだわりの仕事が、いつしか、私の仕事になっていた。
終いには薪で火を熾してご飯を炊き上げるまでが私の仕事になっていたのである。
米農家の大黒柱(一応父のこと)は米の味にもうるさくて、
「今日の飯は研ぎがあまい」とか、「もっと力を入れて研がないダメだ」とか「水加減がマズイ」とか、
「ムラシが足りない」とか、毎回何かと文句をつけた。
一ヶ月に1回くらいしか美味しいと言っては貰えなかった。
父は米の通(つう)が望む理想の味100パーセントを小学生の私に求めるのだ。
丹精こめて一年と言う月日を掛けて、口に運べる物となる『米』、
小学生の私でも、そのことへの苦労や感謝は勿論理解できた。
だからこそ「マシに食えればいいじゃん!」と心の中で思っても、反発できない苦痛があったと思う。
でもその苦痛は本人しか分からないだろうけれど。
こんな事を完璧にできたからといって、今、何の役にも立ってない。
今の世の中、完璧精米で、研ぎ過ぎると逆に味が落ちるとか、下手したら研いではいけない無洗米。
おまけに本格かまど炊きもスイッチポンだ。
今になって思うが、凄く無駄な事ばかりを叩き込まれた気がして、
過去に費やしたものや犠牲にしたものが空しくて仕方ない。
(続く)
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私の役割
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
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私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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私の役割
そして、こんな大家族の中で生活するのだから、この頃には私にも母から分担されて、
いくつかの手伝い仕事があった。
主な仕事は米研ぎである。米は毎朝毎夕2升炊く。
この一日2回の米研ぎが私の仕事になった。
最初1回だったものが2回ともに増え、
小3くらいの時には既に食器洗いも併せて、私の仕事だったと思う。
夕食の支度に関してはご飯だけでなく味噌汁を作っておくのも私の役目だった。
朝の米研ぎは、夜の食事の後片付けの後に研いでおくが、夕飯の分は学校から帰宅してからやった。
だけど学校から帰宅して宿題をやったり自分のことをしてると、あっという間に時間が過ぎて、
夕飯の支度をすっかり忘れていることもあった。
少し話がもどる。
私は小児喘息を患っていた。(病気の記憶は5歳位からしかないが、アトピーもあった。)
私は、ちょっとした運動や気象などの外的変化で発作を起こしていたので、
当然田畑仕事の手伝いに引っ張り出される事はなかった。
が、家にいたからといって、静養してたわけじゃない。
大体は家で炊事洗濯などを任されることが多かった。
寧ろ田畑仕事と変わりなく体力仕事だった気がする。
大人数…洗濯だって、畑仕事の汚れ物もあるので、4人家族とかの一般家庭の2倍以上はある。
量は半端じゃない。
時に前日の干しっ放しを取り入れてたたむ、それも私の仕事だった。
話がそれたが、そもそも今の時代に2升の米を研ぐということを想像できる人がいるだろうか?
宿屋か食堂か惣菜コーナーに従事している大人にしかわからないんじゃないだろうか?
その人たちですら、今の世の中に市販されているような、
チャチャッと2〜3回すすげば済む米しか扱ったことないでしょう。
私が与えられた米研ぎという仕事はそんな楽なものじゃない。
自家精米6分搗きで、研ぎ方も難しい。
言い忘れたが、この頃、朝はガス炊飯器を使っていたが、夜は薪を燃やして鉄釜で炊いていた。
米農家の、それも我が家だけのこだわりであって、
よその家の食卓はとっくにガス&電気による文明の利器をフル活用していたというのに。
そしてその面倒極まりない迷惑なこだわりの仕事が、いつしか、私の仕事になっていた。
終いには薪で火を熾してご飯を炊き上げるまでが私の仕事になっていたのである。
米農家の大黒柱(一応父のこと)は米の味にもうるさくて、
「今日の飯は研ぎがあまい」とか、「もっと力を入れて研がないダメだ」とか「水加減がマズイ」とか、
「ムラシが足りない」とか、毎回何かと文句をつけた。
一ヶ月に1回くらいしか美味しいと言っては貰えなかった。
父は米の通(つう)が望む理想の味100パーセントを小学生の私に求めるのだ。
丹精こめて一年と言う月日を掛けて、口に運べる物となる『米』、
小学生の私でも、そのことへの苦労や感謝は勿論理解できた。
だからこそ「マシに食えればいいじゃん!」と心の中で思っても、反発できない苦痛があったと思う。
でもその苦痛は本人しか分からないだろうけれど。
こんな事を完璧にできたからといって、今、何の役にも立ってない。
今の世の中、完璧精米で、研ぎ過ぎると逆に味が落ちるとか、下手したら研いではいけない無洗米。
おまけに本格かまど炊きもスイッチポンだ。
今になって思うが、凄く無駄な事ばかりを叩き込まれた気がして、
過去に費やしたものや犠牲にしたものが空しくて仕方ない。
(続く)
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頭が痛いとろくな事を考えない

私の生い立ちも
私の病的な思考回路も
私の歪な愛情表現も
全て受け入れられるのだろうか?
って、
そんなことあるわけがない
だって、
自分に都合のいいところしか
見てなかったわけだから
まさかこんな
わけの分からない女だったなんて知ったら
絶対「しまったな」って
後悔すると思う
だって
あなたにとって私は
憧れのジャンルの
違う世界の人だっただけ
それがなくなった今
何の魅力もない
ただ厄介なだけかも知れない
私が支えになってほしかった時、
私の嘆く原因を
「全部俺のせいか」と逆切れされた時点で
この人には言えないと
永久に言えないと思った
私の覚悟など分からないでしょう
建前だけの同情の言葉など
腹立たしい以外ない
言われれば言われるほど
自分が情けなく惨めになるから
そんなものいらない
慰めなどいらない
貴方が考えているものが愛だというなら
そんな愛はいらない
重荷以外のなにものでもない
こんなんでごめんなさい
おそらく世の中の女性は
もっとマシだから
今更遅いかもしれないけれど
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私と言う生き物の培養液(4)
《私と言う生き物の培養液》(4)
母
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
****************************************

《私と言う生き物の培養液》(4)
母
ある意味、父は自分を認めて貰えず親離れできていない、体の大きい息子のままだった。
小学校に入って暫くたったある日、いつも通り学校から帰って奥の部屋で寛いでいると、
間も無く玄関が騒々しくなった。
何事かと遠くから隠れるように様子を窺っていると、父や祖母が沢山の荷物を運んで
玄関でごたついていた。
その後ろから色白の若い女性が入ってきた。
体が小さい訳ではないが、とても緊張した表情で、町娘のように小奇麗で、
どこか存在感の薄い女性だった。
それが初めてきちんと母の姿を認識した瞬間だった。
あのよそよそしい映像が頭に焼き付いている。
あの日、突然現れて一つ屋根の下で暮らし始めたその女性は、
少しずつ家周りの畑仕事やお勝手仕事をするようになり、家の中に馴染んでいった。
私は暫くその女性を「お母ちゃん」と呼べなかった記憶がある。
最初、声に出して言うのにとても勇気が要った気がする。
そうして一ヶ月もしない間に、田畑仕事は病み上がりの母にもまともに任せられ、
総勢13人の食事の支度も大方が母に任せられた。
勿論食事後の大量の食器の片付けもである。
賑やかで慌しかった夕食の後、茶の間と台所で、私と母は後片付けに追われた。
そこは私と母以外、人の気配がなく、嘘のように静まり返っていた。
何せ田舎の人の就寝時間は早くて、
母が退院してきてからは私が祖父と寝ることも、極たまにしかなかったので、
夜8時前には、祖父母は既に寝ていたような気がする。
半年もすると、就寝前に祖父のお伽話を聞くことも、一緒に寝ることもなくなった。
祖父母が疲れるからと言う理由で、一緒に寝るのを母に止められたようにも思う。
これは母が私と寝たかったわけではなく、単に嫁姑の確執に絡むものだったと思う。
何故なら、母は、寝る時に私が密着すると窮屈がって、
「真っ直ぐ寝なさい」「もう少し離れて」といつも怒っていたから。
本人は軽い気持ちで言っていたのだと思うけれど、
小学生くらいの子供にしたら拒絶されてるも一緒だと思う。
実は小1の中後半頃に母が再び半年ほど入院したような記憶があるが、定かじゃない。
それでも小2の時には、再び母が一緒に生活していたように思う。
こんな風に、家には不在な状態ばかりだから当然だと思うが、
とにかくその間もその後も、母に頭を撫でられたり抱きしめられたりという、
スキンシップなるものは全くなかった気がする。記憶にない。
そして、こんな大家族の中で生活するのだから、この頃には私にも母から分担されて、
いつの間にかいくつかの手伝い仕事が与えられていた。
(続く)
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母
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私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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母
ある意味、父は自分を認めて貰えず親離れできていない、体の大きい息子のままだった。
小学校に入って暫くたったある日、いつも通り学校から帰って奥の部屋で寛いでいると、
間も無く玄関が騒々しくなった。
何事かと遠くから隠れるように様子を窺っていると、父や祖母が沢山の荷物を運んで
玄関でごたついていた。
その後ろから色白の若い女性が入ってきた。
体が小さい訳ではないが、とても緊張した表情で、町娘のように小奇麗で、
どこか存在感の薄い女性だった。
それが初めてきちんと母の姿を認識した瞬間だった。
あのよそよそしい映像が頭に焼き付いている。
あの日、突然現れて一つ屋根の下で暮らし始めたその女性は、
少しずつ家周りの畑仕事やお勝手仕事をするようになり、家の中に馴染んでいった。
私は暫くその女性を「お母ちゃん」と呼べなかった記憶がある。
最初、声に出して言うのにとても勇気が要った気がする。
そうして一ヶ月もしない間に、田畑仕事は病み上がりの母にもまともに任せられ、
総勢13人の食事の支度も大方が母に任せられた。
勿論食事後の大量の食器の片付けもである。
賑やかで慌しかった夕食の後、茶の間と台所で、私と母は後片付けに追われた。
そこは私と母以外、人の気配がなく、嘘のように静まり返っていた。
何せ田舎の人の就寝時間は早くて、
母が退院してきてからは私が祖父と寝ることも、極たまにしかなかったので、
夜8時前には、祖父母は既に寝ていたような気がする。
半年もすると、就寝前に祖父のお伽話を聞くことも、一緒に寝ることもなくなった。
祖父母が疲れるからと言う理由で、一緒に寝るのを母に止められたようにも思う。
これは母が私と寝たかったわけではなく、単に嫁姑の確執に絡むものだったと思う。
何故なら、母は、寝る時に私が密着すると窮屈がって、
「真っ直ぐ寝なさい」「もう少し離れて」といつも怒っていたから。
本人は軽い気持ちで言っていたのだと思うけれど、
小学生くらいの子供にしたら拒絶されてるも一緒だと思う。
実は小1の中後半頃に母が再び半年ほど入院したような記憶があるが、定かじゃない。
それでも小2の時には、再び母が一緒に生活していたように思う。
こんな風に、家には不在な状態ばかりだから当然だと思うが、
とにかくその間もその後も、母に頭を撫でられたり抱きしめられたりという、
スキンシップなるものは全くなかった気がする。記憶にない。
そして、こんな大家族の中で生活するのだから、この頃には私にも母から分担されて、
いつの間にかいくつかの手伝い仕事が与えられていた。
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私と言う生き物の培養液(3)
《私と言う生き物の培養液》(3)
父、祖父、その位置付け
はじめに、お読み下さい。⇒こちら
このテキストは、
私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
よって、小説のような面白さも、奇想天外な事件性もありません。
読まれる方は、そのことを踏まえて、過度の期待を抱きませんようにお願いいたします。
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《私と言う生き物の培養液》(3)
父、祖父、その位置付け
その数年後、村が開けてくると、町病院への交通手段も増え、診療所は閉鎖され、
その女医先生も何処かへ行ってしまった。
この頃、父はというと、仕事が遅かったりあちこちの仲間内で呑んだりしていて帰りはいつも遅く、
帰宅後、子供に関わるということはなかったと思う。
父だけが特別な訳ではなくて、父の職業の人たちの日常はそれが当たり前のようだった。
7歳くらいまで、保育園と診療所の記憶はあるのに、父母との記憶は殆どない。
でも、父は、正月など親戚縁者が集まった時に限って、
それなりに成績良く賞状なども多かった私を自慢話の引き合いに出した。
それ以外の時は、決して褒める事がないのに。
ただの父の見栄とプライドの為の道具だった気がする。
都合のいいときだけ、人前に引き摺り出され晒されて、
この時ばかりは無理やり膝の上に座らされて…、
役目が済むと、「子供の寝る時間だから、早く寝なさい。」と追っ払われた。
ただ、父母とのコミュ二ケーションはなくとも、祖父が親代わりのように、教育や教養など
様々な面で面倒を見てくれた。
おかげで小学校に入る前には読み書き、足し算や引き算ができた。
夜は毎夜、昔話やお伽話、祖父の体験など、興味深い話を眠くなるまで聞いた。
祖父は繰り返し強請(ねだ)る私に嫌な顔ひとつせず、根気よく付き合ってくれた。
毎日、夜、寝入る前の布団の中のお伽話を聞く時間が楽しみだった。
それだけでなく、夜、私が喘息発作を起こした時、私を背中におぶってバイクにまたがり、
真っ先に病院へ飛ばすのも祖父だった。
発作で苦しんでいる私を、「いつものことだから」とのん気に放っておく両親を、
たしか祖父が何度か叱り飛ばしていたのを思い出す。
家族の中で、両親とは比較にならないほど、祖父と過ごした時間が多く、
私のことを一番親身に気に掛けてくれたのも祖父だった。
祖父の話はカテゴリー『原点』に別テキストをアップしています。『祖父の存在と影響(1)〜(8)』
回りの人は冗談で、「おじいちゃんの子だ」と言ったが、
本当に私は祖父の子供のようであり、祖父が私の父親のようだった。
(念を押すが、親子ではない。)
この頃、家の殆どの権限はまだまだ祖父にあり、大黒柱的存在も祖父だった。
ある意味、父は自分を認めて貰えず親離れできていない、体の大きい息子のままだった。
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私が、人間としての執着や愛情を受け入れられず、一般の人より感情が希薄な原因と答えを探り、
将来へのスタンスを見出すために、自分の過去を書き出したものです。
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父、祖父、その位置付け
その数年後、村が開けてくると、町病院への交通手段も増え、診療所は閉鎖され、
その女医先生も何処かへ行ってしまった。
この頃、父はというと、仕事が遅かったりあちこちの仲間内で呑んだりしていて帰りはいつも遅く、
帰宅後、子供に関わるということはなかったと思う。
父だけが特別な訳ではなくて、父の職業の人たちの日常はそれが当たり前のようだった。
7歳くらいまで、保育園と診療所の記憶はあるのに、父母との記憶は殆どない。
でも、父は、正月など親戚縁者が集まった時に限って、
それなりに成績良く賞状なども多かった私を自慢話の引き合いに出した。
それ以外の時は、決して褒める事がないのに。
ただの父の見栄とプライドの為の道具だった気がする。
都合のいいときだけ、人前に引き摺り出され晒されて、
この時ばかりは無理やり膝の上に座らされて…、
役目が済むと、「子供の寝る時間だから、早く寝なさい。」と追っ払われた。
ただ、父母とのコミュ二ケーションはなくとも、祖父が親代わりのように、教育や教養など
様々な面で面倒を見てくれた。
おかげで小学校に入る前には読み書き、足し算や引き算ができた。
夜は毎夜、昔話やお伽話、祖父の体験など、興味深い話を眠くなるまで聞いた。
祖父は繰り返し強請(ねだ)る私に嫌な顔ひとつせず、根気よく付き合ってくれた。
毎日、夜、寝入る前の布団の中のお伽話を聞く時間が楽しみだった。
それだけでなく、夜、私が喘息発作を起こした時、私を背中におぶってバイクにまたがり、
真っ先に病院へ飛ばすのも祖父だった。
発作で苦しんでいる私を、「いつものことだから」とのん気に放っておく両親を、
たしか祖父が何度か叱り飛ばしていたのを思い出す。
家族の中で、両親とは比較にならないほど、祖父と過ごした時間が多く、
私のことを一番親身に気に掛けてくれたのも祖父だった。
祖父の話はカテゴリー『原点』に別テキストをアップしています。『祖父の存在と影響(1)〜(8)』
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本当に私は祖父の子供のようであり、祖父が私の父親のようだった。
(念を押すが、親子ではない。)
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